110年前の1909年12月5日 – フランス海軍のル・プリウール中尉と相原四郎海軍大尉が共同製作したグライダーが、第一高等学校の校庭で人力曳航による飛行に成功し、日本初のグライダーによる飛行が行われた日です。
まず無人の状態で人力によって試み浮揚に成功しました。次いでプリウールや相原が搭乗しましたが自動車の馬力不足、校庭の狭さ、発動機付飛行機を目的にしたことによる動翼取付けの重量増加などで浮揚しませんでした。そこで見学に来ていた子供を父親の了解のもと搭乗させたところ成功しました。これにより、子供を乗せた状態で人力曳航による飛行に成功し、日本初のグライダーによる飛行の日となりました。
その後、12月9日に場所を上野不忍池に移し、2回目の飛行で100mの飛行に成功しました。その後、相原が登場した際に20m上昇したところで曳航綱が切れ墜落。しかし、池に落ちた為、相原は無事でした。
1910年(明治43年)1月、臨時軍用気球研究会は飛行機購入と将校の海外派遣を決定し、海軍は派遣将校に相原を選び、3月19日に出発し独国へ向かいました。
しかし、1911年(明治44年)1月4日、同乗していた飛行船が墜落し、その際の衝撃によって急性腹膜炎となり、8日に死去しました。相原の死は航空事故に起因しているが、日本航空史一般においては航空事故犠牲者として認められていません。叙位進級措置もとられておらず、相原の死因は後進への影響を恐れた海軍省の意向で秘匿されたとする見解もあるそうです。
参考資料:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E5%8E%9F%E5%9B%9B%E9%83%8E