皆さん29年前覚えておられますか?(因みにイラクがクエートに侵攻する1ヶ月前です。)
1990年7月2日午後10時20分(日本時間3日昼過ぎ)、ソビエト連邦のテストパイロット、そして、ロシア、モスクワ州ジューコフスキーのグローモフ飛行研究所テストパイロットでもあったAnatoly Demyanovich Grishchenko氏(以下グリシェンコ)が米国ワシントン州シアトルのFred Hutchinson癌研究センターで亡くなりました。52歳でした。
1986年4月、グリシェンコとミル設計局チーフ・テスト・パイロットのグルゲン・カラペティアンは、ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で爆発、破壊された原子炉4号機の残骸に砂とセメントを積んだMi-26ヘリコプターを飛ばしました。砂、鉛、粘土およびホウ素の混合物を露出した炉心に直接投下するというものでした。 ヘリから吊り下げられた15トンの積荷を運んで、彼らは原子炉から放出された放射性ガスの中を飛び、投下作業を繰り返しました。 (原子炉の200メートル上で行われた放射線測定は、1時間あたり500レントゲンを超えました。人が一生の間に被曝する自然放射線の量は約16レントゲン(160ミリシーベルト)。(寿命を60年とし、自然放射線の量を 30 µR/hとして計算)。)
グリシェンコは放射線中毒を患い、その後白血病を患いました。 4年後、彼は妻のガリーナと共に1990年4月11日にワシントン州シアトルのフレッドハチンソン癌研究センターに入院し、化学療法と放射線治療を受けます。フランスの42歳の女性が彼女の骨髄を寄付し、英国航空によってシアトルに直接空輸されました。
グリシェンコは、チェルノブイリ原発への投下作業を行った初日から4年と1日後の4月27日の7時間に及ぶ骨髄移植手術を受けましたが、その手術後、肺感染症になります。
1990年6月12日に、肺感染症の原因を突き止めるために調査手術が行われましたが、彼の状態は悪化し、1990年7月2日の夜に亡くなりました。
アメリカで最も重要な休日である7月4日の独立記念日、米国ワシントン州シアトル市では、ロシアの自己犠牲的なテストパイロットの記憶を称えるために半旗を掲げました。
彼の遺体はロシアに戻され、ロシアのズコフスキーのビコフスコ記念墓地に埋葬されています。
1995年2月27日に、アナトリーはエリツィン大統領によって死後ロシア連邦の英雄の金の星を授与されました。
事故の原因なんて関係なかったと思います。家族と国を守る為にひたすら…
参照:
https://www.thisdayinaviation.com/2-july-1990
(参照:https://ru.wikipedia.org/wiki/ Анатолий Демьянович Грищенко )